「 公教育衰退の元をたどれば米国の占領政策に到達 その最たるものが理科教育 」
『 週刊ダイヤモンド 』 2003年10月11日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 513回
私たちが直面しているすべての問題に共通する原因因子は、教育である。
日本の公教育が質量ともに低下した現実は、国語力や数学力の低下として指摘されてきた。だが、国語や数学よりもさらに衰えているのが、理科教育である。原因を探っていくと、意外にもそこには、占領政策の悪しき影響が見て取れる。
かつて、世界一といわれる優秀な科学者や研究者を育ててきた日本の理科教育は、いまや禿げ山にたとえられる。種を播(ま)くにも若木を植えるにも、土さえ洗い流され、育たない状態だ。
京都工芸繊維大学の左巻健男教授は、日本の理科・科学教育の躓(つまず)きは、戦後すぐに、占領軍から指示された「生活単元学習(course of study)」と呼ばれる米国式の教え方から始まったと解説する。
かつて米国では、知識は教えられて頭に蓄えるものではなく、子どもたちが自ら考え問題を解決していく過程で習得するものだという教育論が主流だった。
「生活単元学習」は、1947年5月に施行された小中学校用の学習指導要領に入れられた。内容は、極端なたとえかもしれないが、家を建てるのに、建築学を教えず、実際に家を建てさせながら考えさせるというものだ。
体験には確かに意味がある。しかし、限界もある。建築の重要な定理が、体験を通してすべてわかるものでもない。建築にまつわる枝葉末節ばかりが頭に残る可能性もある。しかし、敗戦国となった日本は米国式の理系の教育法を受け入れざるをえず、その方向で学習指導要領が作成された。
その後、51年に改訂され、「生活単元学習」方式の教え方がさらに強化されたが、その間、現在と同じように、子どもたちの学力低下を懸念する声が上がった。断片的な知識しか学ばず、物事を全体的に見て系統的に学ぶことがなくなったと批判された。そこで58年、再び改訂され、理科学習の系統性が重視された。
評価すべき内容もあったが、日本の教育はますます不幸な道を歩んだ。
理由は2つある。第1は、文部省(現文部科学省)と日本教職員組合(日教組)との対立が激しくなるなかで、文部省が学習指導要領を官報告示とし、法的拘束力を持つと見なしたことだ。その陰で、教師たちの自由な研究や工夫よりも、指導要領が優先された。
日本の教育水準の高さは、現場教師たちの熱心な研究活動によって支えられていた側面がある。教師全員が日教組の政治闘争に熱心だったわけではないが、58年の改訂は、少数ながら熱心な教師たちの教育活動をも縛ることになった。教科書の中身を補充し、発展させていた教師たちの努力が評価されず、かえって厳しく管理されるようになったと、左巻教授は指摘する。
もう一つの理由は、多くの現場で、従来の「生活単元学習」を重視する教育法が惰性で続いたことだ。文部省の方針変更が即、実行されたわけではなかった。だからこそ、同省の教師への締め付けは厳しくなり、対立も深まった。
こうして文部省の意図とは反対に、理科教育はさらに衰退した。68年の改訂では、指導内容が「精選」、つまり削減された。77年にはさらに「精選」され、今日まで続く“ゆとり教育”が導入された。89年にはついに、小学1年と2年から理科教育が消えた。そして98年、教育内容は今度は「厳選」された。「精選」よりもっと削られたのだ。
改訂のたびに教育内容が削減されてきたわけだが、削減の基準はきわめてわかりにくい。子どもたちが理解できない、テストで解答できないものは削られていくというのが実態なのだ。
すなわち、公教育の衰退の原因をたどれば、米国の占領に行き着いてしまう。戦後の歴史の見直しが、本当に必要なのだ。その見直しのうえに、初めて教育の建て直しが可能になる。